能力と天国

イエス・キリストは言った。「銀行に入れておくべきだった…」

前回の続き。

投資のことをぼんやり考えていて、イエスのこの言葉を思い出したのでした。最初に読んだときの感想は、「2000年前にも銀行があったんだ」でした。

 

あくまで、イエスが語った喩え話。マタイによる福音書25章。(新共同訳)

天の国の喩えだそうです。お話は要約すると、

「ある人が旅に出るとき、僕(しもべ)たちに、それぞれの能力に応じてお金を預けた。一人には5タラントン、1人には2タラントン、1人には1タラントン。

前の二人はそれを元手に商売をし、財産を倍にする。しかし、1タラントンを預けられた僕は地面に埋めていた。

戻ってきた主人は、前の二人を褒め、もっと多くのものを管理させることにするが、最後の一人に対しては、『わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに 』(27節)と、この僕を外に放り出す」

タラントンというお金の単位は、今の「タレント(才能)」の言葉の元になってるらしいです。

 

このたとえ話の解釈は?

人にはそれぞれ、才能や力などが与えられている。

それが「5タラントン」であれ、「2タラントン」であれ、活用すれば『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』(23節) と喜ばれる。

 

でも、この1タラントンの男、そもそも卑屈だったのです。

主人が帰ってきたとき、

『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』(25節)

と言い訳している。

つまり、この人物にとって、主人は不条理で厳しいもの。読みかえると「不条理で厳しい」という神に関する認識、あるいは世界観を持っていたとも言えると思います。

さらに、「1タラントンしか」と思いきや、1タラントンって、数年から数十年分の収入にあたる額だそうです。つまり、かなりの高額。イエスやその弟子たちなど見たこともない額でしょう。今の私たちの「もしも宝くじが当たったら」くらいのニュアンスに近いかも。

 

たぶん、この聖書箇所からとった牧師の説教を何回か聞いたことがあるはずなのだけれど、憶えていない

想像すると、

「与えられた賜物(能力とか財産とか)をちゃんと使えば、その大小に関係なく神に喜ばれる。与えられているものが少ないと思えても、実は充分なのだ。神に信頼せず暗い人生観を持って何もしない、というのはダメですよ」

商売をせず、銀行に預けていてもよかったのだから、まあ、普通にしていればOK、とも読めるような。

 

やっぱり分からない

しかし、謎がある。

この喩え話で主人が1タラントンの僕(しもべ)に「銀行に預けておけばよかったのに」と言った後に続く言葉。

『さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて。十タラントン持っている者に与えよ。(28節)だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる(29節)』

うーん。

これはどう考えればいいのでしょう? 「世の中って、そういうものだよね」と言いたくなるが、これは天の国の喩えだもの。

「天の国」。英語の聖書では「Kingdom of heaven」。翻訳ソフトによれば訳すと「天国」のひと言。ただのheaven も天国だけど、これはイエスの言う天国(=神の国)なのでしょうか。

すると、なかなかシビアな天国です。

この部分だけで理解しようとするのは無理なのかなあ。

 

 

2件のコメント

  1. このテーマについていくら考えてみても
    良いコメントが書けないなと思いました。
    イエスはたとえ話を使っていつも説明するけれど
    取りようによってはいろいろな解釈が成立するのかな。
    当時の世の中の仕組みとか知りませんし、
    イエスと弟子との対話の文脈も分からないので、
    難しいですよね。
    聖書を引っ張り出して丁寧に読めば良いのでしょうが。
    いつもよく分からないから、眠くなるんです。
    TAMAKIさんがかいつまんで書いて下さるのがありがたいです。
    文脈から・・・主人と僕(要は奴隷)は神と人間の事ですね。
    与えられたタラントはもともと主人が与えたものだから
    最終的に取り上げられても僕は文句は言えないのでしょうね。
    ぐうの音も出ませんね。
    タラントを使って仕事を成し遂げると経験値が増えるから
    それは自分のものに出来るのではないのかな。
    しかし、タラントを土の中に埋めといた僕は
    やっぱり使い物にならない人物だと思います。
    才能やいろいろな物を与えられながら、
    それを活用せず無駄に人生を過ごしたのかもしれません。
    弁解がましく主人が厳しい人だから恐れたと書いてありますね。
    その主人と僕の間には縁と言いますか、心の
    つながりも感じられません。
    人は神にとっては子供の身分ではないのですよね。しもべ?
    しかし、神性のかけらを有している節もあるみたいで、
    覚醒と成長が期待されているのではないのか、などと。
    銀行に預けといた方がマシだったと言われ、
    さんざんですが、真実でしょうね。だけど今はゼロ金利ですが。
    何だか自分の事言われているみたいな
    気になってきました。ちょっと辛い・・・
    クリスチャンではないから関係ないとも言い切れず。

    1. medical_rodさん

      コメントありがとうございます。
      本当は聖書だけではなく、どんな書物も抜き出して読むのは、イマイチなのですよね。

      イエスの喩え話はとても多いのです。
      父と息子に喩えられていることもあります。

      「父の財産を生前に受け取って家を出て、
      遊んで財産を使い切ってしまった息子が食べるのにも困り、
      『召使いとして置いてもらおう』と帰ってくる。けれど、父は息子に駆け寄り、
      指に指輪をはめ、ご馳走を用意して盛大に祝う」
      という話もあります。ずっと父のそばにいて働いていた息子(兄)、は怒るのですけれど。

      medical_rodさんが「自分の事言われてるみたい」は不思議です!

      銀行に預けるって、自分では何もしないわけで、
      それでもいいのですよね。
      穴を掘って埋める、って、消極的というか、世の中と関わる気がない、
      ということかもしれませんね。

      当時の金利はどうだったのでしょうね。

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